NanimonoDemonaiによるvoteの意義についての意見

これは意見です。

Voteポリシーを作るにあたって、ガイドに盛り込まなかった個人の考えを説明するものです。一般に提案は妥協できる箇所がもっとも多くなるようにドキュメントを推敲し、これからどのようにサイト全体が進んで行くのか、全員で理解し、合意を得ることが目的です。従って、以下の個人的意見の全てが提案に反映されている訳ではありません。しかし、全体としてこれで満足です。

この意見の目的は、最終の提案修正までに、下記文面を調整することです。

 「WIKIのクオリティコントロールのために存在します。WIKIの交流ための潤滑油ではありません。」

以下本題です。Voteは個人が行うものですが、このVoteを積み重ねたRateを当サイト全体の益として活かせるようにして行きたく思っています。ここで目指す「全体の益に活かせる」とは組織的なサポートの中で、サイト全体の品質を守り、これを弛まなく改善し続けるシステムにすることであると、私は考えています。また品質とは、ある作品におけるコミュニティが求めるSCPやTale, エトセトラとの合致度であると私は考えています。この観点から見れば批評は、全体の益に生かせる活動です。なお、批評という語をSCP-JPに特化させておくと、批評は下書き批評や、投稿作品の各記事のディスカッションで交わされるものです。批評は、記事改善に関わる質問に答える、必要な情報を検索する、エラーや要求とのギャップを指摘するといった目的のある対話です。

私は、批評とRateの二本立てが、もっとも当サイト全体の益に活かせると考えています。何故ならばRateが批評を補完する、つまり、Rateが検証に供し得る客観的証拠になるポテンシャルがあると考えているからです。ここで、検証とは客観的証拠を提示することによって、記事の品質が満たされていることを確認することを意味します。客観的証拠とは、全体としての要求との合致度を裏付ける真実のデータのことです。 Voteポリシーの新設の目的は、このポテンシャルを高めることです。

断っておくと、批評においても真実を裏付けるデータを提示することができます。例えば、批評において科学的事実の提示は常に行われています。その点で批評にも客観性があります。しかし、SCPには面白さが要求されているため、批評だけでは全体としての要求との合致度を裏付けることが困難です。また、面白さを測る尺度は、このコミュニティには重要なものであると確信しています。ただし、Rateも各人の主観であるVoteの累積であるため、究極のところ客観的証拠の近似にしかなり得ません。しかし、Rateを客観的証拠の近似にすることができれば、Voteと批評が相互補完関係になるので、Voteと批評は両立するサイトの強力な資産になります。

当提案はVoteのポリシーを新設することです。これは、現在実現可能な最善のVoteシステムを確立して、実際に運用維持することが目的です。また、今後の改善のための土台作り、システムの継続的改善もまた目的の一つです。

では、Rateが品質向上に寄与するとき、どのような点を満たす必要があるか?もっとも多く妥協できる箇所を探して行きましょう。私が求める、Rateが品質向上に寄与するために必要な5点の事項は以下です。

  • 記事の品質を測るものになっていること:Voteが変わりゆく著者ではなく、現状の記事に対して行われていること。これは極めて重要な箇所です。すでに、提案の中に妥協なく具体化したのでここでは説明しません。記事の内容に基づかないVoteとして触れているものがそれです。
  • 機能が必要十分あること:Voteにはプラスとマイナスの二つが必要です。一人当たり、プラスあるいはマイナスに投じることができるならば、Rateが客観的な尺度になります。検証に供しうるRateを維持するには、「いいねボタン」のような0 or 1の投票では不足します。また、NVについては議論に持ち出しませんでしたが、私はNVを品質向上に寄与する機能の一つとして見ていません。
  • 柔軟性があること:プラスかマイナスかは個人に委ねるべきだと思います。個人に委ねれば、全体として評価の画一化と硬直化を防ぐことができるので、新規投稿されたコンテンツが時代遅れになることを防げます。またこのような柔軟さはリーズナブルです。そもそも、すり合わせをするということが、コストが高いです。またポリシー制定の方向は「何をやるか」を定義して進める方向よりも、主に「何をしてはならないか」を定義して進めているのはこれが理由です。
  • コミュニティ全体がVoteのアイデアを理解すること:ポリシーを設定して、全体で、ある程度Voteのアイデアを理解することが継続性につながります。コミュニティがRateが使えるものであると理解することと、Voteには最終的に、コミュニティに還元されるものであること、この2点を理解できなければ、システム不全に陥ります。このようなVote無理解症候群の主症状はメンバーのDVの忌避だと思っています。
  • Rateを客観的証拠に近似させること:一人一人のVoteを公平に取り扱うことを意味する要求です。二重Voteの禁止や、他所で自演Vote禁止と言っているなら、全員守るべきであるというルールの要求の根拠です。

議論参加者の中で、記事の品質を測るものになっていること、柔軟性を持たせること、Voteを公平に持たせることについては共有できているかと思います。

クオリティコントロールの件については、検証に供し得るRateを維持することが本意です。言葉を変えましょう。「WIKIのクオリティコントロールのために存在します。」の箇所について以下ように変えてみれば、多くの支持が得られるかもしれません。

VoteはSCP-JPの品質の維持と継続的改善に欠かせないものです。

さて、次の文を検証しましょう。

WIKIの交流ための潤滑油ではありません。

確かに、今までの議論はVote者と被Vote者間の互恵関係を認めています。しかし、互恵関係すなわち交流にできない要求をしています。まず第1項から、Voteは対著者ではないので、直感的な交流の意味がほとんど失われます。交流の基礎は対話ですが、Voteによる対話はできません。

ここで「たとえ高RateであろうとVoteによって賞賛や声援を表明する」ことはシステム不全に陥るVoteへの態度だと考えています。また第2項から、Rateを品質の客観的証拠にするために、Voteの機能にプラスとマイナスのいずれかに投票可能にすることを要求しています。Voteによる賞賛にプラスを割り振ると、マイナスがVoteによる嘲笑に相当し、心理的障壁が高まります。よってこれを認めると、品質評価に必要な機能が損なわれます。裏返って「たとえ低RateであろうとVoteに寛容になる」ことも同様の理由から認めがたいものです。しかし、低評価記事によってかかってコメントを残す批評を禁じることはまた違った意味です。なお、低RateのDVに底値があるように見えているのは、低Rate記事が読まれにくいために、Vote数が少なくなることが主な理由であると思います。ルール上底値を設ける意味は感じませんでした。

Voteを交流の補助に用いたと仮定すると、多くのDVの解釈の仕方が、DVの忌避につながります。「コミュニティがVoteを理解すること」の観点から、コミュニティとしてはUVとDVのいずれもが、直感的な交流、あるいは交流の補助に使われているわけではないことを理解する必要があり、「WIKIの交流ための潤滑油ではありません。」と書きましたが、文面を再検討する必要があると感じています。互恵関係はあるが、対話的交流でも、対話的交流の補助に用いられるものではなく、モチベーションアップを目論んで行われるものでもない点を平易達意に説明できるよう考えます。

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